sealer del sol (シーラーデルソル)

Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]

vol.15

内なる声に導かれ、
私はフリーダイビングに出会った。
笑顔で語る彼女の生き方に迫った。

フリーダイビング松元 恵

海の静かな景観を眺めながら、自分の内面をみつめる。
小さいようでいて、どこまでも果てしない。
酸素のない世界で感じる孤独の中、
溶け合い、海に融合し、浄化され、そして新しく生まれ変わる。
全てを委ねる果てしない安心感。
同じ生命体として、海とどこまでも一緒だということに気づく。
自由へと解き放たれる―

80%はメンタルが重要という特別なスポーツ、それがフリーダイビングだ。
競技としての公式な世界記録は1949年からとまだまだ新しいが、その精神性や神秘性から人々を魅了し続けてきた。
リュック・ベッソン監督の『グランブルー』でフィーチャーされた、故ジャック・マイヨール氏の愛弟子として、
生前寝食を共にし、フリーダイビングを日本に持ち込んだパイオニアとして認知されているのが、
松元恵という女性である。

フリーダイビングをスタートしたのはなんと39歳。現在、56歳。
「今が人生で一番楽しいのよ。60歳を越して競技に復活するのも素敵かもね!」 そう笑顔で語る彼女の生き方に迫った。

「海が導き、救ってくれた」

両親の故郷、鹿児島の海沿いの村に生まれ、すぐに東京に移り住んだ恵にとって、海は毎年夏になると訪れる思い出の場所であった。鹿児島の美しい海は、恵が海を愛する原点でもある。記憶にある父はとても海が好きな人だった。そんな記憶とは裏腹に、逃れられない家庭環境を抱え、辛い幼少期を過ごした恵にとって、海と再び出会うまでの人生は、苦難の連続であった。生きる道を見失うほど、追い詰められ、自分を傷つけ、信じられるものが何もなかった恵を、海はいつも見守ってくれていたのかもしれない。15歳の時に駆け落ち同然で家を出、2人の子供を授かり、19歳でシングルマザーとして東京に戻った恵を導いてくれたのは、紛れもなく、海だったのだ。アルバイト先のお客さんに誘われたことをきっかけに恵はスキンダイビングに出会う。みるみる海にのめり込んだ恵は、国家試験の潜水士・小型船舶1級の資格を取得。昼間は読売ランドにある水中バレエ劇場の裏方として潜り、夜はアルバイトを掛け持ち。週末はダイビングのインストラクターのアシスタントをしながら修行をした。子育ても手を抜けない恵はとにかくがむしゃらな毎日だった。仲間の支えや励ましもあり、ついに1982年NAUIスクーバインストラクターの資格を取得する。当時、スクーバダイビングというのは、潜るのに装備上かなりの力が必要で、イコール女性とは考えられない背景があった。そのため恵はなんと日本女性で5人目の資格保有者であったそうだ。常識に左右されることなく、とにかく海が好きで、それを仕事にしたいという執念は、恵の背中を力強く押してくれた。そんな恵に転機が訪れたのは必然だった。ジャック・マイヨール氏来日のニュースである。

「ジャック・マイヨール氏との出会いが、フリーダイビングとの出会い。」

1989年、ジャック・マイヨールの来日とイベント出演の噂を耳にした恵は、色めき立つ。リュック・ベッソン監督の『グランブルー』が公開される以前ではあったが、1976年、人類で初めて素潜り公式深度100メートルを達成したフランス人がいるという話は、ダイバー仲間から何度も耳にしており、恵にとっては神様のような存在であった。顔も知らないその存在を、30歳年上のロマンスグレーというキーワードだけで探し出した恵は、猛アプローチ。ジャックに気に入られ、トレーニングパートナーとして同行するように。恵はジャックをこう振り返っている。「今考えると、憧れの存在でもありましたが、もしかしたら恋していたのかもしれません。全て教えて欲しいと思っていました。一緒にいることで、素潜りのテクニックだけではない、潜水哲学のようなものをたくさんたくさん教わりましたね。」

ずっと抱いていた深く潜ることへの憧れを実現したのは、ジャックに同行したトレーニング、沖縄、座間味でのことであった。ジャックと共に初めて30メートルの潜水を体験した恵は、絶対的な幸福感で満たされた。生まれてこの方こんな素晴らしい経験をしたことはなかった。食事をしている時も、何をしていても、思わず我を忘れて思いにふけってしまうような、そんな不思議な感覚。そして、その感覚は数日の間ずっと続いたのである。後に、恵は自身の著書「自分という自然に出会う」でその時の感覚をこう表現している。

―海に潜ることにより、自分の存在が受け入れられ、
許されたことで私の心の傷は癒え、優しさに満たされていった。
ただ、生きているという事実こそが喜びの源であり、
「幸せ」とは、その喜びを感じることのできる自分と出会うこと。

私はようやく、素直で無邪気だった子供の頃の、
本来の自分を取り戻すことができた。
もしかしたら、「海に潜る」ということは、
「本当の自分に会いにいく」ことなのかもしれない。

フリーダイビングに没頭し、その後の人生を捧げるきっかけになる出来事であった。

フリーダイビングの魅力に引き込まれた恵は、こうして自身のダイビングスクール、“BIG BLUE”をオープンする。ビッグブルーの名づけ親はジャック・マイヨール氏。その頃、恵に新たな契機が訪れる。ダイビング雑誌に掲載されている、フリーダイビング世界大会の記事をみつけたのである。思い立ったら一直線。石橋を叩く前に渡ってしまうタイプの恵は、早速記事を書いたライターに連絡をとる。当時名古屋にいたライターが、東京に来るのを待ちきれなかった恵は、すぐに名古屋へ。その日には、日本チームを作り、世界大会に参加することを決心していたのだった。

そこからは、フリーダイビング一直線。日本初のフリーダイビング協会JAS発足のきっかけをつくり、イタリアのサルディーニャ島で行われた世界大会に出場。開催二回目になる世界大会であったが、初出場の日本は出場国26カ国中14位という結果を残す。第三回のニース大会では4位、翌年のイビザ大会では5位と記録を打ち立て、現在では後輩たちも実力をつけるまでに。2008年のエジプト大会ではついに念願の銅メダルを獲得、2010年には母国沖縄大会でなんと金メダルを取る躍進を遂げた。続く2012年も、新生“人魚JAPAN”※にて二度目の金メダルを取得、2014年の今年は初出場の地、サルディーニャにて開催、恵も監督兼コーチとして立ち会う。「フリーダイビングが、日本でこのように形になって、世界大会で結果を出せるまでになった。そして今、四度目のメダルをかけた舞台に自分も立ち会えるということが何よりも嬉しいです。」

※フリーダイビング日本代表女子チーム愛称

現在、フリーダイビングの世界記録を持つロシア人の女性は、
40歳を過ぎてキャリアをスタートし、50歳を過ぎてもなお記録を塗り替え続けている。
肉体よりも経験値が物を言い、精神性が問われるが故に、選手生命が長いのもフリーダイビングの魅力だ。
「私自身競技は突き詰めたつもりだけど、まだ未練はあって、楽しみながら競技を続けたいって模索しているところなんです。
ずっと、初めて潜った時のあの気持ちが忘れられないのもあって。
海と一体となって自分自身を内観することも含め、あの衝撃を一人でも多くの人に味わってもらいたい。」

その存在は、父として、母として、恋人として、大いなる師として・・・。
どんな時でも全てを素に返し、自然に包み込んでくれながら、
時に厳しく、時に優しく、自身の魂が喜ぶ道へ導いてくれた。

1998年、恵が初めてフリーダイビングの世界大会で降り立ったイタリア
サルディーニャ島で、今年2014年“人魚JAPAN”は銀メダルという結果を勝ち取った。

今、恵の新しいフリーダイビングライフが幕をあける――。 

人生で大切なものを円グラフで表してください。

人生と海の中に、感じること、遊ぶこと、喜ぶこと人とつながる、自然とつながる、海とひとつになるが入っています。3つの円が少しづつ重なっているところがポイントです。

Profile
松元 恵 Megumi Matsumoto

フリーダイビング日本代表監督・選手/APNA・ACADEMY・ASIA主催/ダイビングスクール「BIG BLUE」代表。1989年にフリーダイビングの神様といわれた故ジャック・マイヨール氏と出会い、フリーダイビングに目覚める1997年、日本初のフリーダイビング協会、JAS(日本アプネア協会)発足。2008年WC銅メダル、2010年WC金メダル獲得。2013年NHK連続テレビ小説「あまちゃん」の水中演技指導にも携わる。近年では、ハワイやタヒチ、利島などでザトウクジラやイルカと触れ合うオリジナルツアーなどを開催。

Official Blog
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