sealer del sol (シーラーデルソル)

Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]

vol.19

氷上をいく。
雲のように、流れるままに

振付師宮本 賢二

高橋大輔さんのバンクーバー五輪ショートプログラム“eye”など、
スケーターの魅力を最大限に引き出す振付に定評があり
現在も年間50~60曲の振り付けを手がけるという売れっ子振付師
宮本賢二さんの魅力に迫りました。

振付師の道を決めた日。

宮本は、兵庫県姫路市生まれ。現在、振付師として忙しい生活を送る彼は、国内外を飛び回り年間350日以上がホテル住まいだという。姫路に帰れるのは、月に一度ほど。
元フィギィアスケート選手アイスダンス代表として活躍していた彼が、スケートと出会ったのは、地元姫路市にあるアイスリンクでたまたまスケートをしたことがきっかけだった。幼いころから頭角を現し、1995年、1997年に全日本Jr選手権で優勝、シニア転向後も、2001年、2002年に全日本を優勝、二連覇を遂げている。
「賢二、上手。」初めてリンクに乗った時、そう両親が手を叩いて褒めてくれたのが嬉しくて、気づいたらここまできていた。彼の歩む道に、いつもうるさく口を出すことなく支えてくれた両親は、宮本にとって感謝してもしきれない存在だ。

現役引退という大きな節目の後押しをしてくれたのも父の言葉だった。
2006年、トリノオリンピック出場を逃した彼は、現役続行のため日本人パートナーを探していたが、それは難航していた。どんなに動いても、どれだけ悩んでも、好転しない状況。シーズンを終え、彼が自然と足を向けた場所は地元の姫路城。
長い冬を越して、はかなくも美しく舞い続ける桜を、何時間も眺めていた彼は、その足で自宅に帰り、両親に引退を告げた。その時父はこう言ったという。 「お前は現役では、一番を目指していたと思う。だけど、引退後は、一番ではなく誰かを支える二番目以下でいなさい。」 その時彼の胸の中で何かがすとんと落ちた。
どこか迷いの残る引退という決断が、父の言葉で進むべき未来となった。
その数ヵ月後に、宮本は振付師のキャリアをスタートさせる。 初めてのシーズンの依頼は数件であったが、評判がまた評判を呼び、次々とオファーが舞い込むようになるのにそう時間はかからなかった。

僕が振り付ける意味。

現役時代も含めて今まではずっと、「やればできる」とかいう言葉が好きだったんですよ。
「仕方ない」と諦めるのが大嫌いだった。なんとかなる、絶対って。
だけど、生きている限りそうならないこともある。
”行雲流水”という言葉を聞いた時に、しっくりきたんです。手相を見てもらった時に、
「あなたは雲のようだ、とか風みたいだ、とか言われることが多いでしょう?」
と言われて。なんだかそんな人だと言われると、今は不思議と嬉しい。

宮本の振り付けに対するオファー数は、今や世界でもトップだろう。それは、彼の振り付けが選手の持つ個性にとどまらず、可能性を無限に引き出そうとするものであるということ。そして、時に選手本人の心さえ鼓舞し、ゆさぶり、時には静めて癒すというような、彼らの人生さえも凌駕する力があるからだと感じる。
「振り付けをする間はその子のことしか考えてないです。頭が空っぽになるまで没頭しますね。プログラムは世界で一番だって思って作っている。それは僕うんぬんということではなくて選手が努力して作っているものであって、彼らは皆超一流なんです。僕はそのお手伝いなので。どんなにちっちゃい選手であっても絶対に超一流になります。必ず確信を持って振り付けます。絶対にいけるって。踊れない選手ももちろんいるんですが、踊れるまで絶対にやる。とても厳しいとは思います。僕、だから自分の振り付けてない子を見ている時間がないんですよ。少しでも自分の選手を応援したいしケアしてあげたい。やっぱり自分の選手が勝って欲しいですもんね。」
「コーチの先生に、この子は踊れないからね、とかこの子は暗い感じがするからね、と言われたら楽しい振り付けをするんです。ド派手に踊らせてあげようと。この子は暗い雰囲気なんだとか言われた場合は絶対に見ていて笑顔になるプログラムをつくる。それが僕が振り付ける意味だと思っています。そして、衣装の色、形、髪型、団子の位置、イヤリング、爪の色まで全部指定する。選手が不安を感じてほんとにそれでいいのかなと言われる場合もあるんですけど、僕は絶対の自信を持って、今これを滑れるのはあなたしかいないと120パーセント責任を持って言います。試合が終わった時に、良くても悪くてもありがとうございました!とか、先生こんなことできました!とかって聞くともうほんとに泣いてしまうほど嬉しいです。」

全ては氷上のために。

振付師という立場から、選手との関わり方をどう思っているか尋ねると彼はこう答えた。「選手に対してはくっつきすぎず、離れすぎず、だけど常に目の届くところにはいたいなと思っています。近すぎると邪魔だと思うので、キスアンドクライには座らないし、リンクの端っこで誰よりも大きく手を叩いて一生懸命応援しています。普段の生活をきちんとしていないと氷上でそれが出てしまうと思うんです。子供たちを教えるのに、やっぱり自分自身きちんとした身だしなみをしたいなと思って生活している。小さなことなんですけどかばんは閉めておくとか。靴は揃えておく。部屋は片付けるとか。朝は二度寝はしないとか。そういう生活をするように心がけています。選手に対しても、いろいろ言いますね。すっぴんで電車に乗ってきたりしたら怒りますしね。
振り付けを美しく見せるという意味での身体の管理にも細かいタイプだと思います。自分のかわいい選手だから、心配だし、大好きだし。言われたらやなことでもそう思ったら言うし、どうでもよければ怒りもしないし。去年よりも一点でも多く選手に点数を取らせて、一つでも順位が上がるようにやっていきたいと毎年、毎年、毎日、毎日思います。」
彼は迷いのない言葉を出す人だ。そして、奢ることなく必ず周囲の人々への感謝の言葉を口にする。「僕は両親もそうですけど周りの人に助けられているので。歩くところに何か置いてくれるんですよ。みんな。藪をかきわけることもなく、歩こうとしたらいつも周りの人が助けてくれた。ほんと周りのおかげで適当な男がこうやってやっていられている。本当に感謝しています。」

大空を漂う雲のように。

確かに、雲のような人なのだ。そう思った。
さっと太陽を隠して強い日差しから守ったり、逆に太陽を通して気持ちを上げる光を注いでいる。リンクの袖で誰よりも大きな拍手を送り、明るい笑顔を送り続ける彼は、選手たちを守る雲というポジションを獲たのだと思う。 彼の座右の銘であるという「行雲流水」。
大空を漂う雲に吹きつけるのは、決してやさしい風ばかりではない。吹きすさび、荒れ狂う風もある。人生もまた然りだ。いつだって、全てが順風満帆なことはないが、同じところにとどまって停滞せず、流れるように生きる。だからこそ、また新しく生みだすことができる。それが、彼を彼らしく存在させている。時には大雨を降らせても、いつも心には優しさと情熱がある。くるくると形を変えて、美しく舞うように漂いながら。
フィギアスケートと出会って早や26年。
これだけやっていても未だにリンク袖で涙してしまうという宮本は、今日もどこかで新しい作品を生み出している。

Profile
宮本 賢二 Kenji Miyamoto

シングルからアイスダンスに転向し、全日本選手権優勝など数々の栄冠を手にした国内トップクラスのスケーター。2006年の現役引退後は振付師として国内外のスケーターの振付を担当し、バンクーバーオリンピックでは髙橋大輔のショートプログラム「eye」で銅メダル獲得に貢献。現在も多数の振付を手掛ける他、数々のアイスショーの演出やテレビでの解説も行っている。
宮本賢二プロデュースブランドチャームジャパン
http://www.charme-japan.jp/