sealer del sol (シーラーデルソル)

Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]

vol.32

世界第2位の高峰K2 8611m登頂達成

登山愛好家林 恭子

text / Rika Okubo

登頂率の低さから世界の8000m峰最難関と言われる
この山が夢の先に見せたものとは。

Episode1

「山を前にすると謙虚な気持ちになる。嘘もつけないし、強いフリもできない。ただ、一歩一歩を自分の100パーセント全集中で歩み進める。考えられるのは、とにかく今、この瞬間だけ―」

林恭子が山に登り始めたのは、今から7年ほど前、2011年のことだ。仕事に没頭しすぎるがあまり、時に食事すら忘れる彼女の身体を心配した友人が、体力づくりの一環として登山をすすめたのがきっかけだった。すすめられるがままに1人訪れた初めての登山で、人生が変わる体験をする。人の音が一切しない静けさの中、感じるのは鳥の声と自身の鼓動の高鳴りだけ。頭にあるのは目の前に踏み出すただ一歩のみ。進むたび感覚がどんどん研ぎ澄まされ、動物に帰っていく心地がした。

その時を全力で楽しむ才能に溢れ、好奇心が強く、目的達成のための努力を惜しまない、そんな彼女が山に魅了されるのは自然なことだったのかもしれない。やりたいことと、やらなければいけないことの区別をつけず、それに目をくれることさえなく生きてゆく現代人は多い。好きなことを大事にしたい、そんな自分の感情にふと気付かされた。

みるみるうちに登山にはまり、週に二日は山にいる生活を送るようになる。山から帰る道すがら、すぐにまた次の山に思いを馳せた。見たことのない景色、体感したことのないチャレンジ…、彼女の求める高揚感を山はいつも与えてくれた。トレーニングと並行しながら、日本国内の山々に次々とチャンレンジし、2013年にはネパールヒマラヤの登頂を成功させる。そしてネパールからの帰国後、K2に憬れを抱くようになる。

Episode2

K2に行く。そう決めた途端、彼女にとって1日1日はK2に向かって続いていく道のりだった。都内の打ち合わせには荷物を20㎏にして歩くようにし、必要と思われるトレーニングはリスト化して、毎日欠かさず行うようにした。食事しかり、高所に対応する身体を作るために必要なことを想定して工夫を重ねる。日常が山と共にあり、K2へと繋がっていく。そんな思いと共に毎日がキラキラと輝いていた。

そんな中、遠征出発1年前の4月、K2に向けた訓練の一環として、北アルプス不帰ノ嶮の北壁登攀から唐松岳へ縦走する計画で山に向かった。一般ルートではない、雪と岩でできた壁だ。順調に壁に取り付き登り始めた時、彼女はハプニングに見舞われる。落石だ。雪で支えられていた100㎏ほどの岩が日射でバランスを失って滑り落ち、彼女に直撃した。とっさにバイルを雪壁に突き立て、滑落停止を行い、辛うじて自身の身を止めることができたが、左腕と胸が潰されたような感覚があり、その場にうずくまった。咳込むと雪の上に赤く血が広がった。1mmでも動くと全身に激痛が走る。「K2ならヘリは来ない。歩いて降りられなければ死ぬんだ」と自分に言い聞かせ、それから6時間かけて下山した。その後、車と電車を乗り継いで、事故からちょうど24時間後に都内の自宅近くの病院へたどり着いた。肋骨が10本折れ、肺に穴があいていた。

1日10キロ歩く生活から、10分先のスーパーにさえ1人で行けない生活へ生活の転換を余儀なくされる。しかし、不思議と気持ちは前向きだった。「遠征まであと1年あるから大丈夫」。山に戻ることを目標に、事故の2日後からリハビリをスタート。怪我のなかった下半身を鍛えるスクワットや、握力の訓練と称し、以前からやってみたかった手で捏ねる料理を白玉団子から餃子まで、片っ端から作りまくって楽しく有意義に時間をすごした。

怪我をする前にできなかったことを実現すれば、それは「復帰」ではなく「進化」と言える―。そう信じていた。そして、低山ハイクから始めて南アルプスや北アルプスのガイド山行に復帰し、満を持して10月、北アルプス全山縦走に挑戦。最後まで歩ききった時、山に戻ってきた自分、進化した自分を実感したのだった。

Episode3

K2が、統計上死亡率27%の山であることから万が一を考え、日本にいる間に財産整理を進め、残される家族のために遺言書を用意した。死ぬかもしれないという事実と正面から向き合う時間だった。死への恐怖に身体は何より正直だった。出発一ヶ月前、完治したはずの身体が原因不明の激痛を伴いはじめる。死という極限の恐怖から身体が悲鳴を上げていた。治療に通いながら自問自答する。自分は本当にK2に行きたいのだろうか、真に導かれている道はどちらか…。

身体の痛みと不安とともに日本を出発した彼女だったが、パキスタンに入ると、嘘のように全身から痛みが消え去っていた。 自分の願ったことが自分にとって良いことなら、必ず流れに乗ることができる。生まれ育った奈良県で、彼女は小さな頃から漠然と自然の中にいる神様のような存在を感じていた。はじめにK2に行くと決めてからここまで、どれだけの人が手を差し伸べてくれたか。そして、驚くほど状況が動き、こうして現実に辿り着くことができた。強く願ったことが実現される、そんな目に見えない何かの存在を100%信頼したい、そうまっすぐ思っていた。

パキスタン人たちが口癖のように言う“インシャアッラー”という言葉がある。神の思し召しのままに、という意味の言葉だ。彼らもK2のふもとでそうやって生きている。ただただ、山の前に心を開き、謙虚でありたい。 K2への挑戦がはじまった。

Episode4

一歩一歩、ひと時も気が抜けない環境下で全集中を必要としながら、低酸素状態が続く。低酸素状態では、人間が普段抑えているものがもろに表面に出てきてしまうという。持病や本質的な性格が過剰に増幅される過酷な環境下に、幾度となく隊全体の感情が揺さぶられ、本音や主張がぶつかり合う。辛かった。ただ、そんな中いつ何時も支え合うことができるかけがえのない仲間を得ることができた。

困難は容赦なく彼女を襲う。この環境下が影響したのか、ようやく辿り着いたキャンプ4(7900m地点)で、突然腸痙攣を発症する。あまりの激痛に苦しみがピークに達するも、留まることも下山することも危険と判断せざるをえず、限界まで前へ進むことを決断する。23時、出発。長い夜、ひたすら登り続け、朝日が訪れた時、遂に一番の難所「ボトルネック」に差し掛かる。延々と続く岩と氷の壁をひたすら登る。集中を切らした瞬間、そこに待っているのは“死”だ。究極の環境に、緊張とアドレナリンで寒さはおろか痛みさえも全く感じなくなっていた。

高所衰退で筋肉も脂肪もなくなり、心身とも極限状態に追い込まれた先に、K2の山頂は待っていた。何度、ここで終わりだと思ったことか。登頂の瞬間。疲弊しすぎて強烈な安堵感以外に何の感情も浮かんでこなかった。とにかく終わったのだ…もう登らなくて良いのだ…ぼんやりとそう思った。 「これで帰れる」。ボロボロになった身体で下山を開始した時、その瞬間は、突然訪れた。後ろにいた仲間の声を聞いて振り向くと、人の影がさっと横を過ぎた。一瞬の出来事だった。仲間が滑落していく。彼のもとに辿り着いた時には、もう絶命していた。 この山の全てを、ずっと支えあった一番の仲間だった。

翌日は猛吹雪だった。失意の中、「絶対に死んではいけない」と気持ちを奮い立たせ、埋もれたぼろぼろのロープを掘り起こしながら必死で下り続けた。

Episode5

涙が溢れたのは、5100mのベースキャンプに到着した後のことだった。悲しみと怒りの狭間で幾度となく、何で?という言葉が口をついて出た。彼がここにいないことが理解できなかった。彼のことが大好きだった。楽しいことも、辛いことも、彼と共有するのが当たり前だった。ただ純粋に、生きていて欲しかった。
「This is mountain. This is K2.」そうパキスタン人にかけられた言葉が、繰り返し繰り返し頭の中を巡っていた。8300mの高みで彼はまだ横たわっている。

夢だったK2登頂。あれから三ヶ月、それを誇る気持ちが湧くことはなかった。全ては山の神様が決めること。神々しいK2の前に彼女が抱いた畏怖の念は、そう思わざるを得ないほど大きかった。 同時に、いつも心から応援して送り出してくれていた母親や友人へ改めて深い感謝の気持ちを感じた。特に母親の存在は、あの過酷な帰路の中で必ず帰らねばと思った原動力だった。

でも、やっぱり山が好きだ。どんなことがあってもその気持ちは変わらなかった。それがある限り、山をやめることは、ない。それほどまでに山に魅了されてしまった。 私には、山が待っていてくれるから大丈夫、そう思う程に。

Profile
林 恭子 Kyoko Hayashi

1972年生まれ。奈良県出身。日本山岳ガイド協会認定登山ガイドステージⅡ取得。2011年に初登山。2013年、単身ヒマラヤ登山に出かけシェルパ2名とともにピサンピーク6091m登頂。2018年K2(8611m)登頂。 登山ガイドや登山学校講師を務める他、映像の企画制作も手がけ、2013年、自ら企画・取材・制作・構成を行い、カンボジアのスラムに生きる子どもたちの日常を描いたドキュメンタリー番組がギャラクシー賞選奨を受賞。以来、アジア、アフリカなどの貧困地区で、紛争や貧困、自然災害など過酷な環境で生きる子どもたちを訪ねるフィールドワークと番組の制作を続けている。