sealer del sol (シーラーデルソル)

Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]

vol.26

箱根駅伝優勝、オリンピックコーチ、大腸がん手術・・・
走ることは、生きることだった53歳、新たなるチャレンジへ

プロランニングコーチ、陸上競技解説者、ランナー金 哲彦

photographs / Shuji Tonoki
text / Rika Okubo
Episode1

「マラソン選手というのは、ビッグマウスはいないんです。“天才は有限だが、努力は無限”と言うにぴったりなスポーツ。コツコツ努力を重ねることが、勝利へのファクターとして大きい。」

箱根駅伝では四年間5区を走り、二度の総合優勝を手にした。幼い頃から走ることは得意だったが、貪欲に自分を追い込むことで金の才能はより開花した。 「早稲田大学時代、中村清監督にご指導いただき僕の持つ闘争心に火がついたんです。元軍人である監督のご指導で、本当の命がけとは何か学びました。どれだけ自分を追い込み、高められるか。

一年生の8月くらいかな、合宿があったんですがいつも練習メニューの内容は直前に伝えられるんです。戦争に行って、いつ敵が攻めてくるか分からないのと同じ。いつでも臨戦態勢でなくてはならない。中でも、20キロ全力で走った時に更にもう一本、全力で20キロ走るという練習がありました。経験がなかったのでさすがにびびって、できるんでしょうか・・・と聞いたのですが、『できるんだよ、やれ!』と(笑)。地獄をみるはめになりました。ほんとにあれほど苦しかった練習はないし、完走したんだけど、倒れる寸前でした。

“ライバルに勝つ”というレベルでなく“絶対に負けない”という確固たる意思を常に持っていました。後に、当時の鬼気迫る僕を知る記者から、『あんな目をした選手はいなかった』と言われました。」

Episode2

大学卒業後、リクルートに入社した金は陸上部を立ち上げる。たった一人ではじめたこのチームは後に、小出義雄監督を中心に有森裕子や高橋尚子を輩出する強豪チームとなる。 別府大分毎日マラソン三位、東京国際マラソン三位と結果を出していた金は自分のルーツである韓国からバルセロナオリンピック出場を目指し、単身アメリカでトレーニングを続ける。

「40キロ走っていうのをやるんですよ。一本道を20キロ行って20キロ戻ってくるっていう。自分以外に誰もいないが給水はしないといけない。まず何をするかっていうと、車で5キロおきに水を置きに行くわけですよ。これで往復40キロ。水を置いて行って、ヨーイドンで40キロ走りきって、終わったらボトルをまた回収にいく。辛かったです。全部で120キロになりますから。一人でやるというのはそういうことでした。」どこまでできるのか。目の前に目標があるからやり続けることができた。

Episode3

1990年、選考へのレースは後にも先にも初めての途中棄権という結果で幕を閉じた。抱えていた爆弾、腓腹筋の完全断裂という大怪我。直後は歩くことさえもままならなかった。バルセロナへの夢は絶たれたが、諦めきれない金は再びアメリカでトレーニングを始めていた。時同じくして、有森選手のバルセロナ出場が決定。新たな展開が待っていた。

「小出監督から有森を預かってくれと頼まれサポートをしたんです。有森さんはその後、8月に銀メダルを獲った。僕もバルセロナに応援にいきましたが、自分の培ってきたノウハウがメダルに乗っかっているという気持ちになれた。自分の果たせなかったことをこの子にという思いが、最終的に大きな喜びになったんです。」ずっとランナーとして自分自身の結果を追い求めてきた。同じ喜びを初めて人から得た瞬間だった。

Episode4

1992年、金は現役引退を決断。リクルート女子チームのコーチに就任し、三年後には監督を任される。30歳の時だった。「言葉で説明するのは苦手でした。選手時代一人で合宿に行って、一週間誰ともしゃべらないなんてこともありましたから。よく選手達に監督は理屈っぽいと言われました。理詰めでぐうの音も出ないと。男子の指導は火をつけてあげることが大事ですが、女子の話は聞いてあげないといけないんですよね。今は学びましたが。」

続くアトランタオリンピックで、有森裕子は2大会連続となる銅メダルを獲得、チームから出場した志水見千子も5000メートルを日本記録で4位とメダルまであと一歩という大健闘を見せた。2001年、監督として一心に進み続けていた金に激震が走る。リクルートチーム休部。企業スポーツの転換期だった。競技を第一に考える仕組みとして金はNPO法人という形で市民ランナーのクラブチームを発足させる。自分がやらなければ誰がやるという思いだった。

競技のボトムアップのため、トレーニングコーチとして全国でランニングクリニックを開催、それに並行し雑誌の監修や本の執筆の仕事も増える。また、TVやラジオで的確なコメントを伝える金は、解説者としても確固たる地位を築いていった。まさに順風満帆だった。今振り返れば持ち前の強靭さでとにかくやるしかないと少なからず無理をしていたのかもしれない。身体の不調に気付く。大腸がんステージⅢだった。

Episode5

あれから、はや十一年が経つ。金は今日も走っている。 「今度TVの企画で、100キロマラソンにチャレンジするんです。そのトレーニングで昨日は三浦半島を40キロ走ってきました。100キロマラソンは2度目のチャレンジ。前は30代だったから14年前ですね。この前はフルマラソンでサブスリー(※)にチャレンジして、無事達成できました。50代は新たなるチャレンジです。」

ステージⅢの大腸がんさえも、金は屈強に乗り越えたのだった。手術の後、金が感じたのはかつてとは違う喜びだった。かつても、走ることを心から楽しんでいた。しかし、今やそれは生きていることを実感させてくれる深い喜びだった。

「死ぬまで走りたいですね。ゆっくりでもいいし、短い距離でもいいから。この前、TVですきやばし次郎さんの特集をやっていて、どんな最期が良いかという問いに『それはやっぱり握って死にたい。やっぱり最期はコハダかな。』と答えておられた。みんな必ず死ぬのだから、生涯現役でいられることが幸せだなと思うんです。」

物心ついた頃から走り始め、中学で陸上部に入部した。時を経て、50代になった今も変わらず、心は陸上部だ。これからも、自身を通じて一人でも多くの人に伝えたいと願っている。走ることはこんなにも素晴らしいことなのだと。

※フルマラソンを3時間以内で走ること

人生で大切なものを円グラフで表してください。

嫁が見るからな・・・
もちろん家族って書かないとね(笑)。

Profile
金 哲彦 Tetsuhiko Kin

中学から陸上競技を始め、早稲田大学入学後、1年生で箱根駅伝での5区に抜擢され驚異的な走りをみせた。以降、1985年には同区間で新記録を樹立、早稲田の2連覇に貢献し「山のぼりの木下」の異名をとる。1986年リクルートに入社後、ランニングクラブを創設。マラソンでは、1987年別大マラソン3位。1989年東京国際マラソン3位など選手として活躍後、1992年に小出義雄監督率いる同クラブのコーチとなり有森裕子など、数々のオリンピック選手を指導した。1995年監督に就任。2002年NPO法人ニッポンランナーズを創設、理事長として新しいスポーツ文化の構想を推進している。また、テレビやラジオの駅伝・マラソン解説者としても活躍中。

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