sealer del sol (シーラーデルソル)

Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]

vol.16

スキーもビジネスも、『未知』を知ろうとすることで、
必ず『道』が拓(ひら)けた。

アルペンスキー元日本代表/株式会社デボルターレ代表取締役社長平澤 岳

リレハンメル、長野オリンピック二大会連続出場、
アルペンスキーで日本を代表する選手の一人である平澤岳。
スポーツ選手は引退後、その後の人生設計について悩むことが多いというが、
彼が選んだ道は、一からビジネスを立ち上げること。
その社名は“株式会社デボルターレ”。“スポーツ”の語源となったラテン語である。
トップアスリートであった彼が、スキーウェアを脱ぎ、スーツを着るまでの幾多の岐路、
そして導かれるような出会いについて、話を聞いた。

© Hiroshi Suganuma
ここぞを決める、底力の強さ。

平澤は標高1,600メートルの志賀高原で、スキースクールとホテルを営む両親の元に育つ。友人と遊びに行くといえばスキーに繰り出す毎日だった。後にオリンピック選手として名を馳せる平澤が、頭角を現し始めたのは中学三年生。小学校の頃から活躍している同期に比べると、だいぶ遅咲きであった。
平澤の人生は、押し出されるように花開く。
「高校進学で悩んでいた時期に、両親の仲人である作家の中野孝次さん(※1)とお話しして、海外に行くことを決めたんです。世界で戦いたいのなら、日本にいることはないと。」
当時、アメリカのバーモント州にある、そのスキーの強豪校に入るためには、推薦が必要だった。その資格は、全国大会で5位に入賞すること。結果は4位。平澤はそれを見事にやってのけた。

思えばいつも、ここぞというタイミングで人生を切り開いてきた。

1994年。
21歳の冬。2月に始まるリレハンメルオリンピックに出場するには、1月15日までの国際大会で国際ランキングの基準ポイントを獲得することが求められていた。若手枠にいた平澤は、4枠中最後の1枠を競う位置につけていたが、その冬は降雪量が少なく決してベストとは言えない状況。1月初頭。平澤にとってポイント獲得の最後のチャンスとなる国際大会がヨーロッパで開催される。各選手がポイント獲得に苦戦する中、案の定雪が少なく、コースのコンデションも劣悪だったが、彼は抽選で1番スタートという好カードを引き当てる(※2)。
結果は1位。またも人生が拓(ひら)けた。リレハンメルオリンピック日本代表を掴んだ瞬間だった。

(※1) ドイツ文学者であり、その著書に「清貧の思想」「ハラスのいた日々」などがある。
(※2) 滑走順が後になればなるほど、滑走面が荒れているため不利とされている。

今この一瞬にすべきこと。
勝ち負けの結果は関係ない

オリンピックには魔物がいる、というが、平澤にとってもそれは他人事ではなかった。初出場のリレハンメルは転倒により途中棄権に終わる。オリンピックが終わって一番に考えたのは、メンタルの強化だった。フィジカル、テクニカルと同時にメンタルをトレーニングすることの重要性を、平澤は当時すでに感じていた。
「そこで、とても面白い先生と出会ったんです。辻秀一先生(※3)といって、選手生活の中でも非常に大きな出会いでした。いろんなことを学びましたね。」
先生の教えは多岐に渡ったが、一番は、“今すべきことに集中する”ということだった。スタート前、スタート後、ゴールするタイミング、全ての瞬間でやるべきことをやること。人のタイムが出て、結果が決まる競技の特性上、勝ち負けは自分の力ではどうにもならない。

意識を向けるべきは、自分の持っている能力を一本のコース内で全て出し切ることなのだと気付かされた。それは、あくまで競技中だけではない。長野オリンピックに向けた4年間全ての時間が瞬間への意識勝負であった。
このメンタルトレーニングは、平澤の人生のベースを構築してくれた。平澤の選手生活は、取拾選択の連続だった。何が自分にとって必要で、何が必要ないのか。どう動くことが一番、結果を出すことに近いのか。その判断が、スキー界を変えたエピソードがある。平澤がワールドカップを転戦中に、チリで大怪我を負ったことがあった。第七第八胸椎がまっぷたつになるという、下手をすれば下半身が麻痺する可能性のある大怪我だった。とはいえ、それに平澤が気付いたのは大荷物を抱えてトランジットし、エコノミークラスのシートに乗って、日本に帰国した後のことだったそうなのであるが。MRIを出た彼をストレッチャーが待っており、はじめてことの重大さに気付いたというから驚きである。

(※3)スポーツドクター。著書に「スラムダンク勝利学」など。


© Kenji Kinoshita

一ヶ月後、彼は復帰戦に臨む。当時、怪我に関するノウハウのないコーチが、フィジカルケアを兼ねるということが当たり前であった中、不安を感じた平澤はプライベートでフィジカルコーチを帯同する。必然的にその大会中、他の選手も診ることになり、その必要性が認識される。翌年からはチームとしての予算が組まれ、今では遠征にフィジカルコーチが帯同するというのが当たり前になったそうだ。

迎えた長野オリンピックは、全てが彼に味方したかのようだった。自分の大切な場所、長野。さらに、平澤が出場する回転・大回転は、彼を育てた志賀高原での開催が決まっていた。 「全然緊張せず、お世話になった人、応援してくれた人に一番良い滑りを見せようという意気込みで臨みました。」

ベストを尽くした自信はあった。悔いを残さず滑りきった。平澤の長野オリンピックは、自己世界ランクを大きく上回る20位という結果で幕を閉じた。

その後4年間、現役を続け、ソルトレイクの選考を待って、平澤は現役生活終了を決めた。

『スキーウェアを脱ぎ、スーツを着た時』

引退後、平澤はすぐに始動する。人生はまだまだ続く。やりたいことはたくさんあった。
「スキー業界でどうお金を回すか?後輩たちにどうやってスポンサーを探すか?に興味がありました。」

指導者として進む道も残されていたが、彼の知的好奇心は別にあった。平澤は、広告代理店業界の第一線で活躍する知人に弟子入りし、一から修行することに決める。企画書の書き方、スポーツイベントの予算の組み方、ラジオやテレビの仕組み。今まで自分が出場してきたオリンピックやワールドカップの仕組みをこの時理解した。出場する側としても、プロデュースする側としても、的確に見ることができるのは彼ぐらいではないだろうか。

がむしゃらに突き進む彼に、チャンスは必然的に舞い込んだ。日本シェア95%、世界シェア45%誇る大企業の一大プロモーションのコンペを勝ち取ったのだ。
「会議で飛び交う業界用語などもわかっていませんでした(笑)。つい最近までスキーウェアを着ていた僕が、メインプロデューサーとなったわけですからね。毎日死ぬほど忙しかったです。結果、一年目で全て経験させてもらうことができたんですが。」
このプロモーションをスキーと絡めることにした平澤は、J-WAVEで番組を作り、長野朝日放送でTV番組を作り、スキークロスのシリーズ戦を立ち上げた。

全てが繋がり、プロモーションは大成功に終わった。


現在、平澤はカフェ事業、飲食業、イベントプロデュース、輸入業など、数々の事業を手がけると同時に、チルドレンスキーヤーの育成を目的とするNPO法人「ナスターレース協会」の会長を務めている。手がけた大手化粧品会社の新製品の発表イベントでは美白を訴求するため、雪の北海道で開催した。経営するカフェは、北海道の銭函のスキー場のふもとにある。国産車のプロモーションは、四駆の性能を最大限に生かすため、スキー場で行った。人が集うこと、新しいものを探すこと、モノを面白く、かつ素晴らしく見せること、そして、スキー業界に貢献すること。全て自分のやりたいことであった。

「高校を海外で過ごすきっかけを作ってくれた中野孝次さんが、オリンピック出場の際にくれた手紙があるんです。“人事を尽くして天命を待つ”そう書かれていました。全てはここに尽きるんです。今すべきことを全力でやり、集中すると、満足する結果へと導いてくれる。スキーもビジネスも同じなんです。」

すごくラッキーな人だ。
彼の求めるところに必ず、助けてくれる人も、知恵も、チャンスも、グッドタイミングでやってくる。

なぜか――??

なぜならそこには、決して弛まぬ不屈の精神と、アイディアを生み出すエネルギーと、楽しさを追い求めることへの貪欲さがあるからだ。それも一流の。

彼はいう。「これって本質なんですよ。願えば叶うという。」
やりたいことを心に決め、必死で動いて、言葉に出せば、必然的に道は拓(ひら)ける。
その口から語られる言葉は、きらきらと形をもって輝き出す。

きっとそれは、オリンピック選手であったあの日と変わらない。
スーツの下に、スキーウェアを着ているかのように。

今日もひたすら、道筋を探して全力で動くのみなのだ――。

人生で大切なものを円グラフで表してください。

「吾唯足るを知る」っていう、昔の小判の柄なんですけど京都の龍安寺の宇宙を模した石の庭の裏側に置いてあるんです。石原裕次郎さんの墓石にも刻まれているんですが、神田正輝さんと一緒にスキーをしていた時に、これを座右の銘に使用して良いとご了承頂いたので、引退するまでプロテクターに書いていました。 正直、明確に意味を把握しているわけではないんですけど、「知らないところを知る」という取り方もあるし、「今があるのが幸せ」という取り方もあるし、「モノが無い方が幸せ」という取り方もできる。円を生かして、これにしてみました(笑)。

Profile
平澤 岳 Gaku Hirasawa

1973年、長野県生まれ。元アルペンスキー日本代表。スキースクールを経営する両親のもとに育ち、ジュニア時代から類い稀な才能を発揮。全日本スキー選手権、世界選手権、ワールドカップ、オリンピックなどの大会で活躍を遂げる。引退後はビジネスの世界に転身し、各種スポーツ振興事業、アスリート支援活動などに意を注いでいる。