sealer del sol (シーラーデルソル)

Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]

vol.30

バレーボール現役生活を終え、
新しい旅へ進む

元女子バレーボール日本代表狩野 舞子

photographs / Shuji Tonoki
text / Rika Okubo

その才能でバレーボールの一時代を築き、
今年引退を選んだ彼女が今振り返ること。

Episode1

2018年5日2日、この日の大会をもって、バレーボール選手狩野舞子が20年に渡る現役生活を引退した。

父も母も、バレーボールで活躍する選手だった。少し歳の離れた次姉も日本代表選手として活躍した名選手。そんなバレーボールのサラブレッド一家である狩野家に生まれた舞子も、乳児の頃から当たり前のように多くの時間を体育館で過ごした。

両親は、バレーボールをやりなさいと一度も口にしたことはなかったが、導かれるようにバレーボールの道に進んだ。仲間達と同じ時間に集まり、ひたすら練習をする、そんな堅実で反復的な時間を過ごすことが舞子自身にとってはとても楽しい一時だった。小学6年生の時には174cmまで成長していたという恵まれた身長もあり、注目選手として日の目を浴びるのにそう時間はかからなかった。

中学3年生の時、アテネ五輪代表候補18名に選出される。中学生が選ばれたのは、なんと24年ぶりの快挙。とはいえ舞子自身、嬉しさの反面、自分のいる場所ではないという複雑な感情があったことも否めなかった。成長期の身体の変化から、結局アテネ五輪代表としてその舞台に立つことはなかったが、名前だけが先走っているような、15歳なりの複雑な思いも感じていた。

恵まれ過ぎるほど持ち合わせた才能や、周囲からの注目、自分がエースだという誇りも感じていた。それをどこかで当たり前のように感じる反面、目立つことがさして得意ではなく人のことを慮る性格から、どこか一歩引いて周囲とのバランスを図ることも多かった。


©Bardral URAYASU
Episode2

中学、高校と華やかな道を歩んできた一方で、怪我に泣かされることも多かった。正直、自身で今思い起こしても、現役時代ずっと怪我をしていたように思えるほどだ。手術を伴う大きな怪我は、幾度と半年や一年の足踏みを要する。大きく落胆しながらも、舞子は最終的にはいつも悲観的に捉えずに向き合ってきた。前向きに、そしてさぼらず丁寧にリハビリすると、必ずコートへ同じように戻ってくることができたこと、それは大きな自信に繋がった。

怪我を通じ、これまでどこか当たり前のように感じていた自分自身の身体ときちんと向き合うこともできた。自分の人生に全てが繋がっており、なくてはならないことだったと今は思える。

ターニングポイントは、22歳。海外リーグへの挑戦を決断したタイミングだった。所属する久光製薬を飛び出し、新たな環境を求めてイタリアへ。イタリア1部リーグ・セリエA1パヴィーア入団。その後、トルコリーグのベシクタシュでもプレーした。自分自身のバレーボール人生を切り拓くためにと踏み出した道だった。はじめての一人暮らし。トイレが詰まったり、エアコンが壊れて途方にくれても、なぜだか不思議と笑ってしまえた。助けてくれる人が必ず現れることにも救われた。

2012年、トルコリーグ在籍中にロンドンオリンピック日本代表メンバーに選出される。バレーボール選手としての一番の夢が形になった瞬間だった。自分に何ができるのか、自分のいる意味は何なのか、毎日自問自答を繰り返した。チームとして、常に皆が調子を上げるわけではない。けれどもメダルのかかった最終戦で、チームメンバー誰もがチームのためにという思いを一つにぴったりと合わせ、舞子を有する12名の日本代表女子は28年ぶりの銅メダルを獲得した。

Episode3

2012年、舞子は2年前に退団した久光製薬へ復帰する。それと同時にセッターへのポジション転向を求められる。3年間チームに貢献し、2015年に引退を発表した。 「現役生活はもう十分やったなという思いの反面、ポジションチェンジをして次の目標を設定した中できつくなってしまっていたところもありました。支えてきてくれた人やチームに対して、辞められないという思いも強くて、けれどこのままいくと大好きなバレーボールを嫌いになってしまうのではないかとも思いました。この時は親にも相談せずに自分で決めたんです。」

しかし一年後、舞子はコートに戻ってくる。
「やっぱり、バレーボールが好きでした。引退しても試合を見に行ったり、バレーボールと離れられなかった。それと同時に現役を一度離れたことで、本当にやり切ることができたのか冷静に自分を見直せました。」 PFUブルーキャッツにて現役復帰。スパイカーというポジションで再起し、2年後の2018年5月、現役引退を発表した。

本当に長い長い現役生活だった。決してあっという間と振り返ることはできない。それほど本当にいろんなことがあった。正直なところ、ほとんどが苦しさで満ちていたと言っても過言ではないほど楽しい時間や嬉しい時間は一瞬だった。けれどバレーボールを嫌いになることはなかった。仲間を思いやり、全ての過程を一つのボールに託す、そんなこの競技が大好きだった。 「究極のチームスポーツだと思うんです、バレーボールは。だから、人と人との繋がりを忘れてしまったら決してできないスポーツじゃないかなと思うんです。」


Episode4

踏み出す前に、足踏みするタイプ、そう舞子は自分を語る。しかし、現役を終え間もない今、気持ちはとても前向きだ。やりたいことを片っ端からやってみたい、そう思う。怪我の多かった自身の経験を生かし、トレーニングや食事・休養の重要性などを現役選手たちに伝える手伝いをしたいとも考えている。

バレーボール人生を振り返ると、ボールが繋がっていくように、いつも人との縁が繋いでくれた。様々なポジションを経験し自分と向き合いながら、人の気持ちを理解し思いやることが何より重要だと実感した。バレーボールは自分を何より熱くさせてくれるものであったが、静かに優しく人生の指針を示してくれるようなものでもあった。

舞子が現役時代から大好きなMr. Childrenのヒカリノアトリエという曲にこんな歌詞がある。
“過去は消えず、未来は読めず、不安がつきまとう
だけど明日を変えていくんなら今
今だけがここにある”

まさに今。今を繋ぐことでこれからがある。
バレーボールでもそうしてきたように舞子はこれからもそう生きていく。

Profile
狩野 舞子 Maiko Kano

15歳で全日本代表候補に選ばれたが、成長に伴う腰痛に苦渋し、期待されたアテネ五輪代表入りは成らず。名門校のエースとして春高バレーなどで活躍し、再び注目を集める。久光製薬スプリングスに入団し、開幕戦スタメンと順調なスタートを切った。全日本代表で国際大会にも出場したが、2年間に左右のアキレス腱を断裂する不運に見舞われた。持病の腰痛、足の治療に専念するためチームを退団。その後、世界最高峰と言われる2大海外リーグへ挑戦し、9年越しの夢を叶えてロンドン五輪に出場した。翌シーズンからは久光製薬スプリングスに復帰しセッターに転向するも、3年後の’15年には1年間バレーボールから離れ休養。翌'16年、PFUブルーキャッツでスパイカーとして復帰し、2017/18シーズンには、Vチャレンジリーグの準優勝に大きく貢献する。2018年5月、黒鷲旗を最後に惜しまれながらも現役を引退。引退後はこれまでの経験を活かし、様々な活動を展開していく予定。