sealer del sol (シーラーデルソル)

Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]

vol.41

パラリンピック5大会連続出場、
義足のジャンパーの目に、
今うつっているものは。

下腿義足陸上走高跳選手鈴木 徹

photograph /©MARCO MANTOVANI/FISPES
text / Rika Okubo
Episode1

今年に延期された東京パラリンピックが6度目の出場になる。2008年の北京パラでは旗手も務めたパラリンピアン鈴木徹が陸上をスタートさせたきっかけは、交通事故だった。
幼少時代からスポーツが得意だった。生まれ育った山梨で、中学、高校とハンドボールに全精力を傾け、高校3年時には国体で全国3位という輝かしい結果へチームを導いた。将来は日の丸を背負うアスリートになる、鈴木はそう強い信念を抱いていた。
スポーツ推薦で大学進学が決定していた矢先、その事故は起きた。スポーツに明け暮れる日々を送ってきた鈴木にとって、今までに経験したことのない束の間の春休み。寝る間を惜しんでバイトやプライベートに明け暮れた。ほんの気の緩みだった。運転する車で帰宅中、疲れ切った鈴木は気付くと眠りに落ちてしまった。突然の大きな衝撃と共に、意識ははっきりとしていたのを覚えている。ただ、ガードレールに挟まれた足が、ひどく痛くてたまらなかった。
一週間後、複雑骨折を伴い、動き始める兆しのない足の壊死を回避するため、切断手術をすることが決まった。やりきれない気持ちがとめどなくあふれ出る。簡単に受け入れることは到底できなかった。全ては自身が招いたこと。無理にでも現状を打破する他はない、そうどこかで考えていた。
3ヵ月後、退院したその日に鈴木は義肢装具士の元を訪れた。そして、その1週間後、義足をつけ歩行訓練を開始した。

Episode2

事故の傷跡の影響で、義足との相性を慣らすのには時間を要した。2週間ほどで義足に慣れ、退院していく人達を横目に、初めは両松葉杖を使って立つことすら精いっぱいだった。義足を使って歩くたびに血が流れる足のケアをしながら、毎日少しずつ訓練を繰り返し、3ヵ月経つ頃にはようやく松葉杖を使わずに歩くことができるようになった。ハンドボールを必ずもう一度やる、全てはその強い信念のためだった。足がないことに対する心無い一言に傷つくこともあった。自身はもう前を向くと決意を固めているからこそ、その隔たりをとても悲しく感じた。
半年後、鈴木は大学に復学しトレーニングの延長で陸上部に所属した。目の前のことを必死にこなす日々だった。
走高跳を跳び始めてみると、記録はぐんぐん面白い程伸びた。走高跳は中学3年時、県内2位という実力を持っていた。思えばハンドボールでも、滞空する技術が得意だった。あれよあれよという間に、障害者の陸上大会で参加基準記録を叩き出し、一気にシドニーパラリンピック代表に内定が決まってしまったのだった。
初めて鈴木が2メートルジャンパーの称号を得たのは、時を経てその6年後のことだ。今でも忘れない特別な体験だった。前日から続く悪天候の中、当日室内でアップを終えた鈴木が試合会場へと向かおうとすると、嘘のようにぴたっと雨が止む。濡れたピッチが試合時間と共にぐんぐん乾き、ベストなタイミングで鈴木の順番がきた。最高の試合運びで自己ベストの2メートルにかかり、遂にラストの3回目。地面を蹴った瞬間、幸福感が身体を満たす。跳んだタイミングで不思議とお世話になった人達の顔が頭を流れて消えた。特別なジャンプだった。結果は、2メートル成功。鈴木の番が終わると、その瞬間に待っていたかのように大雨が降り始める。今思い出しても全ての流れが繋がるような不思議な体験だった。

Episode3

その後、鈴木はアテネ、北京、ロンドン、リオと続けて5大会連続パラリンピックに出場し、2008年の北京大会では旗手を務めるなど、20年以上第一線で戦い続けてきた。試行錯誤しながら自分のジャンプと向き合う中で、常に意識していることがある。
1つは、日々自分自身の身体の調整を常態的にやらないことだ。定説といわれる食生活を遵守したり、決まったトレーニングを考えもなしに繰り返すのではなく、その日ごとに自分の状態を観察し、必要なものを見極めることで、どんな時にも順応させられる自分になる。
もう1つは、本質から意識を外してみることである。自分の跳躍を撮影し、修正点をあぶり出すと、不思議なことに修正すべき点の真の原因はその前か後にあることが多い。大抵、問題部分に気を取られていては気付けない、目線を少し外したところに原因があるのである。他のスポーツはもちろん、スポーツとは全く違うジャンルに答えが落ちていることすらあった。柔軟に視点を変える、アプローチを変える土壌を持つことが不可欠なのだ。
一進一退を繰り返しながら、鈴木は着実に成長し続けてきた。2016年、満足な結果を得られなかったリオパラリンピックを経て、翌2017年のロンドン世界パラ陸上では、2メートル01センチを跳び、2メートル越えで自身初のノータッチ(※)を成功させることができた。
※バーに全く触れずにジャンプを成功させること

Episode4

2019年ドバイで開催された世界パラで、鈴木は東京パラリンピック代表内定を確定させた。大会を通して一番に伝えたいことは、“とにかく障害を知ってもらうこと”。日本人は、ただ知ることで壁を解消し、必ず心のバリアフリーを実現することができる、そう経験上知っているからだ。小学校に講演で訪れる際に驚くことがある。今まで障害に接したことがあるかないかで、子供たちが全く異なる言葉を発するのだ。鈴木の義足を見て、「気持ち悪い。」そう言い放つ子もいれば、「かっこいい。」そう目を輝かせる子もいる。障害を知ることが、障害の理解にとって何より大きな一歩なのである。東京パラリンピックがその機会に繋がることを、鈴木は何よりも願っている。そして、走高跳に心血を注ぎ、結果を出す自分自身の姿を通じて、誰かが信じる何かへと打ち込むきっかけになれたなら、それは最高に本望だ。
走高跳は、ある意味とても残酷なスポーツである。競技柄、脱落ゲームを勝ち抜いて世界新を出し金メダルを獲っても、最後は必ず失敗という結果で終了しなければならないのである。でも、だからこそ次への躍動が沸き立つのかもしれない。革新や進化と共に、鈴木のチャレンジは一生続いていく。今年、41歳を迎かえる。ホームで迎える東京パラリンピックでは、もちろんメダルを獲ること以外考えていない。この脱落ゲームを誰よりも、心から楽しんでいるから、ゴールはまだまだ見える気配がないのだ。

Profile
鈴木 徹 TORU SUZUKI

1980年生まれ、山梨県出身。2000年シドニーパラリンピックで日本人初の走高跳選手として出場を果たす。2006年のジャパンパラ競技大会で日本記録を更新する2m00cmを跳び、当時世界で2人しかいない義足での2mジャンパーとなる。日本人選手団の旗手を務めた北京2008パラリンピックでは5位入賞。ロンドン2012大会、リオ2016大会では4位入賞。日本初となる義足のプロアスリートとして、自身の経験を活かし、小中学校や大学、企業など、全国各地で積極的に講演活動も行っている。