sealer del sol (シーラーデルソル)

Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]

vol.44

走ることを通じ、
己の軌跡を証明するために。
まだ見ぬ先へ、覚悟と共に。

株式会社OFFICE YAGI 代表取締役
RDC GYM|RDC RUN CLUB|SWAC 代表
ATHLETE AGENT 監督
ランナー八木 勇樹

photograph / Shingo Maehara
text / Rika Okubo
Episode1

陸上に関して、いつも負けん気を強く持っていたと思う。中学・高校時代の自分を振り返り八木はそう語る。他の誰でもない、自分に負けている時点で終わりだ。いつからかそう自分を叱咤激励し、他人の目線ではなく、自分を軸にものを考えるようになった。
八木の長距離の才能が開花し始めたのは中学一年生の冬のことだ。何の気なしに陸上部への入部を決めた入学当初は、県の新人大会もままならないレベルだったものの、その半年後には全国大会で戦うステージへと駆け上がっていた。自分を納得させるための努力は厭わなかった。中学生の頃から、部活動での練習後は別の競技場に足を運び、自分の決めたコースをタイムトライアルで走るという日課を決めていた。
早々に、個を突き詰める競技性が自分向きだと気付いた。自己を体現したい、自分の思う概念を貫きたい、そう考える気持ちが強い故に社会という集団に溶け込むことは苦手かもしれない…。そう自分を分析していた。
高校は、全国駅伝で8回の優勝を誇る駅伝強豪校、西脇工業高校への進学を決める。走りの世界に身を置くと決めたターニングポイントだった。

Episode2

西脇工業高校で寮生活をスタートさせた八木は、更に伸びしろを見せる。高1の国体3000mで2位入賞に続き、高2のインターハイでは5000mで日本人トップ、高3でも同記録を達成した。高2から高3のトラック競技では国内で一度も負けなかったことになる。過酷な部での練習と並行して、個人でのトレーニングも変わらず続けていた。
部内で伝統的に定められた規律は非常に厳しいものだった。ただ八木は、それをどうしても丸呑みすることができなかった。人に敷かれたレールのための、「右向け右」や、極度に与えられたプレッシャーを超える美学というようなものが、どうしても腑に落ちなかったのだ。そのため、圧倒的な結果を出すことで誰にも何も言わせない、そんな究極の十字架を、いつも厳しく自分に課していた。
高校の最後の試合、全国高校駅伝という大きな転機があった。満を持してトップの栄冠を勝ち取りに行こうとしていたこの日、八木は原因不明の高熱に襲われ、無理を押して出場することになる。結果は、惨敗。八木が何よりも欲しかった高校としてのタイトルの夢はこの時潰えてしまった。それと同時に、自分に科した十字架が重く体を蝕み始めることになる。
高校を卒業し、二年連続インターハイ覇者という大きな注目度と共に早稲田大学に進学した八木を、原因不明の不調が襲うようになる。身体は万全、納得のいく練習もできている。だけど試合当日、朝から心拍数が上がり始める。身体が鉛のようになり、軽く走るのもやっと。心当たりは、あの苦い記憶の全国高校駅伝だった。実際にそのショックからか試合を終えた後の3か月間、熱が上がったり下がったりを幾度も繰り返していた。
どんなに過酷な状況も、やり遂げられるはずと自分を疑ったことはなかった。次はいける、次はいける、次こそは…。しかし、どうにもならない現実から逃れることはできなかった。結果を出せない自分が不甲斐なく、ならば死なせて欲しい…と、幾度も自分を責め続けた。

Episode3

大学3年の10月に陸上部主将に就任した八木は、時を経て徐々に走りを取り戻していた。出雲全日本大学選抜駅伝競走で3区区間区間賞の走りでチームは優勝、続く第42回全日本大学駅伝対校選手権大会では3区間3位でまたも優勝、第87回箱根駅伝では9区区間2位の走りで総合優勝を果たし、大学駅伝3冠を達成した。
しかし、華々しい記録を前にしても自分はこんなものではないという気持ちがいつもどこかにあった。実際、あの不調からは完全に脱してはおらず、いつでも戻ってしまう可能性を必死で踏みとどまっているような状態だった。自分に出すことができるのは7割程度の力だという思いが拭えぬまま大学卒業を迎え、名門旭化成に入社した八木は、2014年の第58回全日本実業団対抗駅伝競走大会にて2区を走り、歴代最高タイム(当時)をたたき出す。社会人として走る中で、もっとランナーとして広い世界を見たい…そんな突き動かされる思いが募っていた。
2018年、八木は、旭化成を退社し、2020年の東京オリンピックに目標をおきケニアに拠点を移すことを決める。もっとストイックに走りを追求したい、そう思っての決断だった。世界で一番速い選手達が集まる未知数な国であり、トレーニング環境は決して整っているわけではないことも含めて、ケニア行きは八木にとって魅力的だった。
ケニアでは同時に合宿地を作ることを決めた。協賛企業やクラウドファンディングを募り、自分だけでなく現地のケニア人選手の才能を生かせるようにと考えた。
ケニアでは;恐ろしいほどに待ったなしの状況が続いた。予定していた土地の盗難、国外追放、信頼していた仲間の着服…。日々必死で何とかしようと奮闘する中で、事業を優先させるべきと感じた瞬間があった。もしかしたら、自分を許すことができるタイミングで走ることに区切りをつけたいと思っていたのかもしれない。八木はケニアでのプロジェクトに本腰を入れることを決断し、これを機に現役引退を決断した。

Episode4

苦悩が多い道を選択してきたと思う。振り返れば、自分の反骨精神は強みであると同時に、歪みを生む弱みだったのかもしれない。けれど、やっぱり他の方法は考えられなかったと思う。自分らしく走り続けるためには。
高校時代にトップを走ったその瞬間の情景をいつも懐かしく思い出した。それと同時にあの失敗を思い出す度吐き気がするほど苦しくなった。徐々に人に応えられるような結果を出せても、いつもどこかで自分自身を許せずにいた。
ずっと自分の望む努力ができたし、満足のいく結果を手に入れる味わいも知っていたから、自分のあるべき姿は、自分の手で作り出せると信じていた。だからこそ、認めたくない自分に出会って傷ついた。
でも、どんなに辛くとも走ることから逃げたり、背を向けなかったからこそ今に歩みを進められた。苦しんで、それでも自分に勝つために取り組んだ全ての経験は、確実に今へと繋がっていた。
現在八木は、株式会社OFFICE YAGIを立ち上げ、自身もパフォーマンスコーチとして指導を行いながら、低酸素トレーニングジムやパーソナルジムを経営している。一般人からトップアスリートまできめ細やかにサポートしながら、スポーツに取り組む多くの人のチャレンジするための砦でありたい、そう思っている。
スポーツにおいて、新たな価値を創造したい。八木勇樹として何ができるか、ゴールはまだまだ先だ。

Profile
八木 勇樹 Yuki Yagi

高校2年から3年時にかけてトラック競技で日本人に無敗。同年の国民体育大会では、悲願の外国人選手を退け優勝。 早稲田大学時代は、高校3年時から4年時にかけて競走部主将となり、駅伝3冠(出雲・全日本・箱根)、関東インカレ・日本インカレ総合優勝の5冠という史上初の快挙を達成。 その後旭化成では、ニューイヤー駅伝のインターナショナル区間の2区で日本人歴代最高記録をマークし今も破られていない。 2016年に独立し株式会社OFFICE YAGIを設立。自身の競技を続けながら、RDC RUN CLUBを設立し、一般ランナーのサポートを行う。2018年にはケニア共和国・イテンに世界一を目指すトレーニングキャンプRDC KENYAを設立。2019年12月で現役を引退し、その後RDC GYMやKARIV GYMなどスポーツウェルネスの事業を展開。2021年にはニューイヤー駅伝を目指す実業団ATHLETE AGENTの監督に就任。