sealer del sol (シーラーデルソル)

Guapo!WEBマガジン[グアッポ!]

vol.20

自転車とこの体1つ。
人生をかけて、走り抜く

2015年度Jプロツアーチャンピオンプロロードレーサー畑中 勇介

地球上で最も過酷なスポーツとも言われるサイクルロードレース。
その象徴ともいえるツール・ド・フランスは、一日約200キロ近くの距離を三週間に渡って走り続ける。
時に大雨、限界ぎりぎりの寒さ、灼熱の照り返し、突風など様々な環境下で
200人もの選手たちがふるいにかけられ、たった1人の優勝者を決める。
そんなロードレースに魅了され続け、今年度ジャパンプロツアーチャンピオンに輝いた
Team UKYOのエース、畑中勇介選手にお話を伺いました。

ラッキーが、僕を導いた。

ただただ、自転車が好きな少年だった。今は亡き父親譲りの自転車好き。父が所有する、一般家庭には珍しいドロップハンドル(※1)の自転車に、時間ができるとまたがった。幼い畑中にとって自転車は、まだ見ぬ広い世界に連れ出してくれる特別な存在だった。17年経った今でもそれは変わらないのかもしれない。目的地は、幼き頃によく行った津久井湖や相模湖からレースのゴールに形へと変えたが。とにかくラッキーだった、そう畑中は言う。テレビでみたジロ・デ・イタリア(※2)で、マルコ・パンターニ(※3)の走りを見て、ロードレースの存在を知ったこと。たまたま通い始めた近所の自転車屋さんで現ツアー・オブ・ジャパン(※4)大会副ディレクターの栗村修氏に出会ったこと。当時現役のトップロードレーサーであった栗村氏に連れられ初めて見に行ったレースが国内最高峰のロードレース、ジャパンカップだったこと。トップで逃げる栗村氏を見て、“こんなかっこいいものがあるのか!!”と衝撃を受けたこと。全て、今も大好きで大好きでたまらない自転車への道へと繋いでくれた。
栗村氏の指導を受け、中学二年生ではじめてロードレースに出場した畑中は、その時すでに進む道を決めていたという。「僕は、ロードレーサーとして生きていく。」今考えれば不思議なほど、全く迷いがなかった。その後、畑中が進学した高校で作った自転車部は、今ではインターハイで2度の優勝を飾る強豪校へと成長し、ロード選手や競輪選手を多数輩出している。また、当時ゼロスタートから顧問を引き受けてくれた恩師は、その後、Jr日本代表スタッフとして功績を残しているそうだ。日本ロードレース界に軌跡を残し、畑中は走り続けている。

(※1) スポーツ自転車に装着された曲がったハンドル(下写真参照)
(※2) 毎年5月にイタリアで行なわれる。ツール・ド・フランスと並ぶ、「3大グランツール」のひとつ。
(※3) 1990年代後半に大活躍した、イタリア人のカリスマ的ロードレーサー。
(※4) UCIアジアツアー2.1にカテゴライズされる自転車ロードレースであり、日本国内では都府県をまたぐ唯一のステージレース。

高校卒業と同時に、畑中はチームブリヂストンアンカーのサテライトチームに加入、プロ選手としてのキャリアをスタートさせる。頭には拠点を海外におく選択肢しかなかった。本場フランスで徐々に頭角を現し、2008年にはプロコンチネンタルチームであるスキルシマノに移籍、1月ジャラジャウ・マレーシア第七ステージでいきなりプロ初優勝を飾る。
サイクルロードレースというのは、様々な実力が問われるスポーツである。身体能力はもちろんのこと、機材の調整や、天候や気候を読む判断力、勾配や風に対する瞬発性、チームとの協調や戦略、個のパワーと精神力…。身体を極限に追い込む中、刻々と変わる状況にいかに対応していくか。過酷な体力戦であり、緻密な頭脳戦でもある。これらに加えて更に、“もっている”人間が勝つ。畑中の言葉を借りるに“ラッキーである”ということ。今振り返るとこの試合もそうだった。第六ステージまで、強豪チームがほぼ優勝を飾り、畑中たちはゴールも厳しいほどの苦戦を強いられていた。最終レース、畑中たちが逃げており、あと数秒で追いつかれるというタイミングで天候が大きく変わり強い雨に。あっという間に路面が濡れてスリッピーになったため、総合優勝を決めていたチームが減速を決断。畑中を含めた4名がゴールスプリント(※5)に。畑中が勝利をつかんだ。また、その半年後、ブリクシア・ツアー第一ステージbのチームタイムトライアル(※6)で優勝を飾るという快挙を遂げる。畑中らが一周走ったところで日が沈み、その後トップチームが相次いでコースミスという番狂わせ。最高速でコーナーを抜けてゴールした畑中らは、チーム優勝。前日チーム最上位につけていた畑中が、そのステージのリーダージャージ(※7)を獲得。イタリアの新聞でも大きく取り上げられた。

(※5) 優勝を目指し、スプリンターによるゴール直前の争い。時速7~80kmになることもある。
(※6) チーム全体で走り、チームの5人目がゴールしたタイムが成績になるレース方式。スタートからゴールまで全速で走り続けなくてはならないため、かなりハード。
(※7) ワンデーレースなら優勝者、ステージレースなら現時点での最高成績者が着ることのできるジャージ。ツール・ド・フランスは「マイヨ・ジョーヌ」という黄色いジャージ。

(left)photo:Hideaki.TAKAGI/cyclowired.jp(right)photo:Makoto.AYANO/cyclowired.jp photo:Hideaki.TAKAGI/cyclowired.jp
自転車が、
心底好きすぎる——。

畑中がロードレーサーとしての道を確信したレースが、2010年のジャパンカップだ。
日本最高峰であるこのレースで3位になり、日本人として13年ぶりに表彰台を飾る快挙を遂げる。25歳を迎えたこの年、畑中は表彰台の上からの景色を見た時、心でこう思ったという。「もうずっとこの世界で飯を食っていく。」と。恵まれていたが、いつも順風満帆だったわけではない。10代から賞金だけでぎりぎり生活をしていく中で掴み取った結果。やれるだけやって、やればやった分だけ自分のためになる。そう確信した。思えば、海外レースの帰路分、飛行機に自転車をのせるためのチャージ代の持ち合わせがないままレース前日を迎え、賞金を勝ち取ったこともあった。ステージレース(※8)前半に発熱し、最後まで走りきることさえ無謀と思われていた中、勝利を掴んだこともある。結局いつも、ぎりぎりのところで救ってくれたのは自分に対する揺るぎない自信だった。「必要なものは必ず勝ち取ってやる!」

そして何よりも、ロードレースへの愛情だ。
驚くことに畑中は、オンオフを切り替える感覚が一切ないのだという。とにかくロードレースが好きで好きで、オフを意識したことがない。勝つという目的意識が何よりも勝るため、シーズン中は不摂生の「ふ」の字もなくレースに集中する。我慢しているというよりも、発想自体浮かばないのだ。畑中が制したジャパンプロツアーというのは、一年を通じたレース結果のポイントを換算しチャンピオンが決まる。そのため、常に一定の緊張状態が続く。ツアーの集大成である全日本選手権が終わると、昨日までかけらも食べたいと思わなかったアイスクリームを手に取って食べている自分がいる。
無意識かつナチュラルなスイッチのオフ。 目標を達成したい気持ちとそれに対する姿勢は負けないと自負している。いつも、ただ当然のごとく大好きなロードレースを一番に求めていた。それを支えるプロ意識にしかりだ。サンダルで空港を歩くなんて、スポーツ選手としてどうなのか、プロなんだから。そう後輩にも言う。スポーツ選手に限らない、たとえどんな仕事でもプロという名のもとにはきっちりやって欲しい。自分はいつもそうしているから。曲がったことが大嫌いな畑中は、今や、ロードレース界でもベテランの域に入った。

(※8) 複数日にわたって行なわれるレース。1日限りのレースは「ワンデーレース」。

もう一つのかけがえない存在

畑中は、今から4年前、結婚し、生涯の伴侶を得た。自転車を趣味にしている人なら名前を耳にしたことがあるだろう。東大卒という異色の経歴で、サイクルライフナビゲーターとして幅広くメディアで活躍する絹代という女性だ。
出会ったのは今から9年前。畑中がU23日本代表としてイタリアのレースに出場する際、当時広報として帯同したのが彼女だった。
「僕の人生のほぼ全ては自転車で、その中に絹代もいたんですよね。」レースで落車をし、意識を失った畑中が救急車で搬送された際に、絹代はスタッフとして同行した。意識は取り戻したが、その二週間後に世界選手権を控えていた21歳の畑中が、包帯でぐるぐる巻きにされながら、その場を自らのジョークで和ますのが印象的だったと彼女は話す。なんとも畑中らしいエピソードだ。全国を飛び回り忙しい生活を送る彼女は、誰とも違う立場から、畑中を理解し、応援し、支えてくれる。
「ほんと、こんなにおもろい人と出会えてラッキーだなと思います。結婚する前からずっと選手としての自分のスタイルを何よりも尊重してくれた。若い選手がいい人いないかなあとか言ってると、いやー、運だよねって言うんですけど(笑)。」今では、もう2歳になる紅香ちゃんも家族に加わり、守るべき存在が増えた。早くに父親を亡くしている畑中にとって、家族というチームはかけがえのない存在となった。

限界を超え続けるという責任

ロードレースというのは人間味にあふれたスポーツだ。個々のぶつかり合いというにはとどまらない。チームを構築し、かわるがわる先頭に立ち、体力を奪う風の盾になることで互いをアシストしながら、山を上り、山を下り、平地を漕ぎ続け、最終的にエースと呼ばれる実力者をゴールへ送る、信頼がものをいうスポーツだ。その反面、機材の進化と共にあるスポーツでもある。自転車の進化はもちろん、現在はパワーメーターをつけて、心拍数・気温・走行時間・ケイデンス(※9)・スピード・勾配等を総合的に把握しながらトレーニングをし、レースを走る。常に自分の限界を見据えながら走るので、どこまでも非情で冷酷になりうる。つい数年前まではスピードを把握するだけのスピードメーターしかなかったというのに、だ。
更に、最速で時速100kmを超えるスピードを出し、落車では命の危険さえあるハードスポーツである。
最高にドラマティックなのだ。
エースである畑中には、チームを背負ってたつ責任がある。尊敬できない人を、自分の人生をかけてアシストできるはずはない。誰よりも自転車と真剣に向き合えているのか?普段から自問自答し続け、この過酷な競技と冷静に向き合い、限界を超え続けなくてはならない。その自覚がある。
今年30歳を迎えた。2010年、2011年、そして今年、とJプロツアーを制覇したが、まだまだ上昇し続ける。戦いたい場所がある。 夢は続くのだ。

(※9) ペダルの1分あたりの回転数。

人生で大切なものを円グラフで表してください。

まずは自転車。娘が生まれる前まではほぼほぼすべて自転車でしたね。娘ができて変わりました。家族大切だなあって。車は趣味ですね。自転車やってないときはネットサーファーなので、ひたすら車を調べてます。調べすぎて無駄な時間を過ごしてるんじゃないかと思うことさえある(笑)
結局全部自転車なんですけどね。結局自転車なければ、今家族も持てていないし、車も乗れないし。その他も結局自転車にまつわることなんです。

Profile
畑中 勇介 Yusuke Hatanaka

高校選抜優勝。ジュニア全日本選手権優勝。卒業と同時にヨーロッパに渡り、プロチームで活躍。2007年U23全日本タイムトライアル選手権優勝。2006&2007年U23世界選手権出場。2009年に帰国、現在はTeam UKYOのエースとして活躍。2010, 11, 15Jプロツアー総合優勝。現在、もっとも勢いのあるロードレーサーである。

Official Blog「ハニカミ王子、ハンカチ王子、オレ八王子」
http://blog.goo.ne.jp/yusukehatanaka